日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 室町幕府第六代将軍・足利義教を斬り伏せた男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
行秀は躊躇なく刀を振り下ろしました。こうして義教は、辞世の句どころか、最期の言葉を発する間もなく、行秀によって背後から首を取られたのです。
宴から一変して赤松邸は修羅場と化しました。諸大名は座敷を這って逃げ、庭から塀を越えて逃走するざまでした。そういった中でも刀を抜いて、行秀などに飛びかかってきた者がいましたが、赤松家の老臣が「既に将軍の首を挙げた上は、赤松家としてこれ以上の争いは望まないので鎮まれたし!」と大声で叫びまわったので、ようやく事態は収まりをみせ、残った者も赤松邸を後にしました。
この将軍暗殺事件は、その日の内に、すぐ京に知れ渡りました。
「将軍かくの如き犬死、古来その例を聞かざる事なり」
「前代未聞の珍事なり」「言語道断の次第なり」
「希代、不思議の勝事、先代未聞の事なり」
当時の日記などにも、事件の衝撃さが残されています。義教の評判が悪かったことから、「自業自得」とも記されています。
諸大名が屋敷を後にした後、老臣の富田の屋敷から「狂乱」と称して隠居していた満祐が戻り、軍備を整える指図を出しました。義教の仇を取るために、兵を挙げる大名がいる可能性が大いにあったからです。
ところが、諸大名が出兵する気配は全くありません。これは、今回の事件が赤松家の単独の犯行なのか、それとも同調する大名がいるのか、判断できなかったためだと言われています。
物見を出して、反撃がないことを確認した満祐は、義教の首と共に領国の播磨への引き揚げ命じました。その際に赤松邸を焼き払った後、隊列を組み、堂々と京都を後にしたといいます。そして、その行列には義教の首が槍先に高々と掲げられました。その首を掲げたのが、義教の首を取った行秀だったと言われています。
その後、幕府に対する反逆者である赤松家には治罰の綸旨が下り、細川持常や赤松貞村、山名持豊などの幕府軍の追討を受けることになりました。
播磨に軍勢を集中していたため、美作をすぐに奪われ、合戦においても敗戦を重ねたため、諸方面の兵を退き、本拠地としていた坂本城(兵庫県姫路市)に籠城しました。
しかし、坂本城は平城であり、幕府の大軍と戦う要害ではないため、城を捨てて城山城(きのやまじょう:兵庫県たつの市)という山城に移りました。行秀もこれに従ったようです。
嘉吉元年(1441年)9月9日の早暁、城山城を包囲していた幕府方の山名軍の攻撃が始まりました。標高458mの亀山(きのやま)に建つこの城は、急峻な要害にあるため、山名軍の猛攻を何とか退けました。しかし、誰の目で見ても、落城は目の前に迫っていました。そこで満祐は義雅(弟)と則尚(甥)を城から逃しましたが、それを知った城兵たちの士気が落ち、脱走する者も多く出ました。
そして、翌10日を迎えました。
山名軍の攻撃は卯の刻(午前6時頃)から畳み掛ける様に行われ、辰の刻(午前9時頃)になると、終に残るは本丸のみとなってしまいました。
ここに来て満祐は、教康(子)と則繁(弟)に再起を図らせるために脱出せよと厳命しました。はじめは容易に聞き入れなかった2人も、満祐の遺命に最終的に従うことにしました。運良く西南の方角が手薄であったため、何とか落ち延びることが出来ました。
彼らが城を出たことを確認して、満祐は自害の支度に入りました。
介錯を任されたのは、足利義教の首を取った赤松家一の剛の者、安積監物行秀でした。
「頼むぞ、行秀よ」
「御意!」
行秀は割腹した満祐の首を斬り落としました。主君の最期を看取った行秀は、本丸に残った赤松一族69人の自害をしかと見届けた後、城に火を放って、火中に身を投じました。
巳の刻(午前10時頃)には城山城は落ち、名門赤松家は滅亡したのです。
主家の滅亡を見届けた行秀の振舞いは、赤松家の最期の花を飾った天晴れな武者振りと讃えられたといいます。
落城から7日後、満祐と行秀らの首は焼け跡から見つけ出され、京都へと送られました。そして、管領の細川家や義教の遺児たちの前で首実検が行われ、9月21日に四条河原に晒されました。梟首(きょうしゅ)の後、京都の市中を引き廻され、赤松邸の焼け跡に移されました。そこで2人の首は、焼け跡に植えられた栴檀(せんだん)の枝に掛けられることになりました。一の枝(根元から数えて最初の枝)には主君の赤松満祐、二の枝には行秀の首が掛けられたと言われています。その後の行秀の首の行方は、定かではありません。